白飯

好きな物100

「Space gather of it all」同志社 第三劇場


久しぶりの学生演劇。演技等は、どうしても他の劇団と比べてしまうな。あと会話が演劇的というか、なんとも、そらぞらしい。声を遠くに飛ばすためというわけでなく、僕とかが普通に台詞を言おうとすると陥ってしまうし、普通にもっと上手い人でも、そう感じることがある。何だろ、関西弁→標準語の違和感なのか。会話というのは、言葉の応酬というだけではない、ということか。よくわからん。


そして、あらすじも、よくわからん。文学性の強い演劇だと聞いて覚悟してたが、途中眠くなってしまった。最初は、つまらないな、と率直に思った。
一応、舞台には、地下の喫茶店といったカウンターと机と椅子がしつらえてある。登場人物は喫茶店のマスターと、営業?人材スカウト?の女性が出てくる。女性がマスターと話したり、マスターがコーヒーを入れたり、家に帰って溜息をついたり、テレビショッピングを眺めたり。そういう物語的部分の合間に、呟きが次第に意味とスピードが日常から外れていき、詩の朗読のようになったり、音楽に合わせてダンスになったり。


内容はよくわからないのだけど、勝手に解釈すると、話のテーマとしては、「くだらないワタシの人生はいつまでも同じように続いていく」「誰かに助けだしてほしいなあ」「狂いそうだ」というようなものだと思った。詩や言葉、音、動きのほとんどが、反復され、ループ続ける。多分、それは繰り返されるつまらない日常を象徴しているのだと思った。そのあたり、最近よくわかる。


ただ、それ以上の何かが伝わらなかったのが残念だ。最後、マスターが褌一丁になって、「人間だもの!」と踊りだす。音楽は少し明るいが、結局言葉は反復し重ねられ続けるままだ。しょうがない。しかし、それはそうなのか?



「自分の人生」というように言葉でもって、概念としてモデル化してしまえば、語りやすく、わかりやすいが、本質とは遠のく。単純に視る方の倍率の問題というべきか。
「人生はつまらない」というのは、例えば、人生の捉え方を、「毎日会社に行って仕事して帰っていく。ただその繰り返し」というように現実を抽象化し、少し低めの倍率で視ているからで、もっと高い倍率で視れば細かな幸せや変化する道筋なども見えてくるかもしれない、逆に低い倍率(宇宙的視野)で現実を捉え(現実逃避的ではあるが)、一時的にでも生きる力を得る事だってできるだろう。


要は、観測するモデルの問題で、この話は「人生はつまらない」という距離感のモデルで見て絶望している人たちを描いているのだと思った。しかし、それではまだ、人間の本質と言うか、ようわからんけど、現実に踏み込んでない領域なんではないかと思った。その先の何かがあるのではないかと期待して見てた。


こういう風に自分で勝手に解釈して捉えると、漠然と見るより楽しくて、感想が書きやすいなと思った。しかし、なんだこの嘘くさい文章。で、どういう意図だったんだろうなあ。


あと演劇的な技術はわからんのですけど、一つの机と椅子で、二つの部屋を同時に表したり、全然違う場面を無理矢理繋げるように場面転換する方法(何も説明してないな)とか、良いと思った。
それと、関係ないけど、言葉に音楽を乗せて、さらに動きをつけるというのは、反則だなと思った。見ていて楽しい。文章だけでは辿りつけない領域。演劇ってスゴイんだよきっと。