白飯

好きな物100

6000万の評論人

僕が評論文を読むのなんて、国語の授業くらいのもんだ。評論の世界なんて知らないし、面白くなさそうと思う。そういえば、お祖母ちゃんに進められた評論の雑誌、結局1つも読んでなかった。

しかし、今やインターネットの普及で、評論(それを評論と呼ぶかどうかの定義はしらないが)を目にしないことはない。最近は、テキストサイトを見回ることが増えたので、そういう文章を見る機会も自然と多くなった。文章がうまくて、論理の構成がきちんとしている人たちは、結構たくさんいて、自ら意識して書いている人も多い。そういう文章を見ると、とても真似出来ない、と思うと共にその内容を真に受けてしまうことが多いので気をつけねばならない。良い評論は、自分と全然関係ないことを論じている場合だ、そうなのかあ、と思っても、知識や考え方を吸収できた気がして得した気分になれる。悪い評論は、自分に当てはまる場合だ、それが悪し様に言われている場合はもっと悪いが、そうでなくても、この唯一無二の存在であり、心の奥底で特別でありたいという希望を持ち続ける、自分自身が、簡単にカテゴライズされるような浅い人間である、思ってしまえば、とてもとても気分が悪い、恥ずかしい。また、自分の持っていた価値観が崩される場合も多々ある。信じていたものが、うすっぺらなものであると、論じられるのは、辛いと同時に恥ずかしくなってしまう。

という風に思ってた評論だが、評論から、人やら作品やらを見ると、何が本当なのか、全然わからないな、と思った。それは当たり前で、人それぞれ感じ方や考えが違うからなんだけれども、それでは真実はどこにあるのか、といった青臭いことを考えてしまうのだ。そんなことを考えていると妙に不安になる。ネットの評論では、有名な人でも悪し様にいわれることが多い。またそのファンに対しても、馬鹿な人々として扱う。それじゃあ、言ってるお前は何様なんだ、という気持ちにはなるが、まあネットの文章であるからにして、少しくらい色がきつくないとわざわざ読まないということもあるだろうと納得してみる。果たして、このように冷静に分析して、馬鹿と良識人を分けようとするか、馬鹿といわれても自身の感情に任せるか(妄信的なものも含む)、どちらが立ち位置として正しいのか、正しいとかあるのか、といったことを考える。僕にとって立ち位置は、行動の方針となるので、とても大事な問題なのだ。立ち位置は一定のルールを導き、それがあれば人生という大きなパズルを解くことも容易、と思う。

ここまで書いて、書きすぎたと思った。評論めいたことはしたくないのに、ダラダラ書いてしまった。まあ自分が記録を残す為だと思えばナットクできるか。結論として、自己満足のために書いているようなのは、あんまり良くないということかな。ダメダメだ。