白飯

好きな物100

エネルギーは何処からくるか

やる気=エネルギーと思っている。やる気がないとは、やれば出来るのでなくて、きっと出来ないのだ。食欲だって性欲だってそうだ。体が欲して、気持ちが欲するのだ。そう思うと、やる気が出ないことに後ろめたい気持ちはなくなった。むしろ、どうやってエネルギーを補給するか、という問題を考えれば良い訳で、とても前向きな気持ちになれる。どうしたらやる気がでるかを考えるのは、つまり人の心をどう操作するか、という問題を考えることになり、答えが出る気がしなかった。でもエネルギーなら、なんか科学っぽくね。いけそうじゃね?

これまでは、事象と、その前後のエネルギーの変化を捉えて、やる気=エネルギーを出させることを考えてきた。無謀キャプテンを読んだらエネルギーが出た。AKIRAをみたらエネルギーが出た。良い本やアニメはエネルギーを生む。みたいに。で、今日思ったことは、エネルギーは内で生まれるものか、外から補給されるものか。ここでいうエネルギーは物理などのエネルギーとは少し違ってて、便宜的に使ってるだけで、気とか戦闘力とかと同義であるから、エネルギー保存則とは関係ない。いや、もしかして関係あるのか?だって消費するしな。

クリエイターは少なくとも作品を創るとき、おそらく莫大なエネルギーを持っている。そんなエネルギーってのはおそらく作品にも籠められているはずだ。そんな作品に触れるとき、作品の波長というか空気にあった人間は、作品からその莫大なエネルギーの一部を受け取ることができるのではないだろうか。つまりエネルギーは外から補給される。

しかし、別の考え方もできる。莫大なエネルギーに同調することで、または作品を通してクリエイターのかけた膨大なエネルギーを感じることで、自らの内のエネルギーの源的な何かが共鳴し、エネルギーを高める、または生成する。もしくはオスエネルギーとメスエネルギーが交わることで新しいエネルギーが生まれる的な何かが起こるのかもしれない。

そしてさらに、実はエネルギーがあるんだけど、眠っているまたは出口に繋がってないということかもしれない。つまり人間のエネルギーってのは、各人一定量持つ。それは体の持つエネルギーといってもよくて、疲れたら減るし、元気ならエネルギーも多い。でもそれを活動に移すには、そのエネルギーを正しい出力先につながねばならない。でもその配線がうまくいってないから、出せない。できない。やる気がでない。となる。

エネルギーの話の結論は、これから経験を積んだりしていくうちに考えていくとして、この話のオチはどうしよう。もうやる気がなくなった。