白飯

好きな物100

「あんなに優しかったゴーレム」ヨーロッパ企画


楽しんだ。


今回のは、ゴーレムという想像上の生き物(?)の存在が自然に信じられている(存在している)町を舞台に、その町出身の野球選手の軽いドキュメントを作りに来たテレビ局の人達が、ゴーレムを信じたり、信じなかったり、ゴーレムのドキュメントとろうぜ!みたいになったりするコメディ。


ゴーレムの設定が、生物と言うよりも、人間の意思に反応して土や鉱物が形を変えて助けてくれる現象であるという設定は好きだった。それ故に、ゴーレムを信じていないと、ゴーレムは現れにくいし、現在の科学でそのメカニズムが説明できない為に、昔はたくさんいたゴーレムも数を減らしているというのも、最初のゴーレムの設定がうまくはまってる気がした。こういう設定好きだ。




物語は、最初はゴーレムとキャッチボールをしたという野球選手やゴーレムに育てられた少女とかゴーレム研究の博士とか存在を信じる街の人をうさんくさく思ったり馬鹿にしたりしていたテレビ局クルーが、少女とゴーレムがぷよぷよする様子などを見て信じていき、ゴーレムなんて世間は信じないし、そんなのをテレビに出すことはできないとするディレクターと対立しながら、ゴーレムのドキュメントをとろうとテレビマン魂に目覚めていくようになっている。


だけど、信じる心の大切さとか、科学の弊害とか、そういう勧善懲悪的なところに話を持っていかずに、あやふやなものに対する態度とか、信じると信じないの対立の不毛さとか、その辺が少し出ていて良かった。


実際にその町にはゴーレムはいるので、街の人たちは、水道の蛇口を捻れば水が出る感覚で、ゴーレムの存在を認識しているけれど、途中、テレビ局の音声の人が、昔ペガサスを見た事があるという話をしたときに、全員がゴーレムを信じる人達でさえも否定して、「そういうのとゴーレムを一緒にされたら困る」と怒りだす。結局、何を信じているかだけの違いでしかない。ペガサスもゴーレムもそれを信じない立場からすれば同じものにみえる。


何を持って、確かとするかの線引きは難しくて、人間の知覚でさえ、騙されることがあるのだから。その考え方の下では、何かが存在しない事も、何かが存在するという事も等しく証明することはできないし、その押し付け合いのコミュニケーションは何だか不毛に見える。今は、科学が規範となって、それにのっとった検証によって、証明やら法律は作られているのだと思うけれども、結局宗教や迷信含めた伝統全てを排除することはできないし、することもないと思う。どうしたらいいかっていうと、どうしたらいいんだろなあ。信じられるものを信じて、それを押し付けず、信じている人を馬鹿にせず、という感じなのかなあ。


しかし、いつもながら主役グループの人たちのウザさは素晴らしい。グループ内の空気に染まらなければ馬鹿にするし、自分達以外に基本的に失礼であるし、変わり身が早い。そういう人間の嫌なところが笑いになっているので、なんともしんみりした空気や熱い展開も、どことなく空々しくなるよう描かれていると思う。それでも、いつも楽しい気持ちで劇場を出れるので、ヨーロッパ企画はよいな。もっと売れろ。