白飯

好きな物100

なんて史的にジャパネスク

今日は、就職の決まった友人とカラオケ・演劇・飲みという最近お決まりの遊びに行ってきた。その日の面接で決まったので、生めでたいということで、友人のテンションも高めな気がした。希望に満ちる、というやつだ。いろいろ話をしていたが、その友人が考えている企画の話が出て、それが少しずつ立ち上がってきているのを感じて、昔に参加表明をしていたけれど具体的な想像ができてない僕は、ごくりと精神の喉をならすのだった。このままの僕で、さて何ができるのか。どこにいくのか。考えねばなるまい。でもこの日記で「〜なるまい」とか書いたことは大抵実行されないので、やばい、悪いジンクス踏んじゃった。まあ、いいか。何をしなくちゃじゃない。何をしたいかだ。


その後演劇を見たのだけど、友人は演劇をやっていたこともあって、見方が全然違うことに改めて気付いた。別の演劇を良く見る友人ともそういう違いを感じていた所で、二人と比べることで自分の見方がはっきりしてきて、興味深かった。
僕が基本的に演劇を見にいく時に求めるのは、総合的な面白さ楽しさだ。僕が受け取るとき、演劇は変換されて、面白さ楽しさになる。いわば、変換されてしまえば、それは他の漫画とか小説とか映画とかドラマとかの物語から受け取るものと変わらなくなる。それら多くの選択肢の一つという位置付けだ。もちろん、高濃度の面白さ楽しさに変換される選択肢として、純粋に等価であるわけではない。多分、演劇を見に行き始めた頃はまた違ったと思う。”目の前で”展開される物語というのが僕には凄く刺激的だったし、なんだかわからないエネルギーみたいなものをもらえた。そういう自分の変化にも気付いた。


一緒に見に行った演劇というツールの可能性というか拡張性、それに到達しようとする意思みたいなものを見ている感じだ(僕の説明では非常に抽象的でわかりにくいが)。だからこそ完成された劇団よりも、未熟でも学生劇団や新鋭の劇団を良く見に行くのだとブログに書いてて、なるほどなと思った。創り手視点というのは、それだけ視点が多い。もう一人の友人は、僕と同じ客席側の人間ながら、演劇だから与えてくれるものという別の意味での可能性を見ている。新しいものが見たいという点では二人は共通しているのかもしれない。