白飯

好きな物100

女は読経、男も読経

法事で寺へ行く。父親の七回忌だ。あれから7年も経つのかと、またも時の流れ云々を想う。僕は大学を卒業して大学院に言ってそのあと就職までしたのだけど、あんまり変わってない。まだ変わってないです。


和尚さんのギャップアイテムとして、眼鏡と時計とスクーターが直ぐに思い浮かぶのだけど、ここの住職さんの時計はギラギラと重そうで、ギャップ萌えではなく俗っぽさを感じた。実際のところ、寺は広いし、あちこちに時計があるわけでもないので、時間を知るために必要なのかもしれん。


最初、お経をあげる前に、雑談をして、近況も交えつつ色々話を聞いた。七回忌は、超祥忌と言って、1回忌(小祥忌)、三回忌(大祥忌)ときて、乗り越える区切りなのだそうだ(うろおぼえ)。そして、忌中の忌とは、忌む、忌わしいといったネガティブな意味に思うが、それは己の心と向き合う事を指しているという。忌中とは、近しい人の死に際して、自分の心と向き合って、亡き人の事を思い出したり、これからの自分の事を考えたりする時期のことなのだと理解した。なるほどなあと思った。その他に、自分には必ず二人の親(父と母)がおり、その親にも親がいる事から、10代さかのぼれば1024人の先祖がいる事になり、その1024人が居た事で自分がいるという事を、自覚せねばならないと聞いた。生まれてきた事に感謝を、そして先祖を大事にという事だと思った。


昔から何と言うことも無く聞いていたが、こういう雑談はただの雑談ではなく、その知識と仏教原理でもって、檀家の相談を聞いて教え導く説法であり、それが和尚さんの昔からの仕事であり、檀家との関わり方なんだなあと改めて思った。昔話で村人が和尚さんに相談するのもこういう理屈だったのか。宗教が死ぬときの様式くらいになっている感覚の人間からすると、当たり前だけど新鮮に思った。


そんな風に思ったのも、この和尚さんの話がまだ慣れてない感じがしたからで、この住職さんは普通に会社勤めをしていて、40過ぎてから寺を継ぐ事になった。前の住職さんが厳しくしてみるみたいで、内情は大変そうだったがこないだ正式に住職を受け継いだらしい。前の住職さんは、小さい頃から見ていたせいか、そのまんま和尚という感じがしてて、洞窟のような低くて太い声で経を読み、その声のまま喋りかけてくる様は、威厳というか凄い偉そうな感じが滲み出ていて、「和尚という異質」を感じさせる何かがあった。褒めすぎか。いや褒めてないか。


ちょっと前、葬式とかそんなんの後の飲み会で、言わば僕の住んでいる地区のお爺ちゃんお婆ちゃんの誰かが「今の和尚さん(今の住職)は、説教が下手だ」と冗談で言っているのを思い出した。和尚さんが良い話をして、それを聞くという光景自体を、その中にいる檀家がメタに自覚しているんだと思って、面白かった。


昔から双方または片方に利益と意味があって自然と行われてきた事が、長い時間を経て、形式のように双方の生活の一部として溶け込み、半ばそれを意識している事が面白く感じた。それが厳然なルールでない所が面白いと思った。失われつつあるけど、形式になっているので失われず、かといってそれがルールとして決められているわけでもない。そんなものがあるのが面白かったのだと思う。うむ。よくわからん。


雑談の後、住職さんの後ろに家族が並んで、お経を読んだ。この皆でお経を読むというのが良いのだろうな。声を出す事は、余計な事を考えなくて良い。でも、声が全然でないし、何だかお経っぽく読もうとしてしまって、全然ダメだった。結構直ぐに終わったけど、これ本来というか昔はもっと長かったんだろうなあと思う。儀式が、内容よりも、それを行う事実だけが大事になった事で、簡略化が進む。けど、本来は、その日だけでも長い間一心不乱に経を読んで弔うという非日常が、宗教的にも、個人的にも大事だったんだろうなと勝手に思った。でも、実際1時間も正座できんし、どうせ余計な事ばかり考えるので、まあこれが良い加減だという情けない現実。


あと最後、帰るときに、今年の1回忌、3回忌などの檀家の名前と日付が書いてある大きな張り紙をみた。今年のスケジュール表みたいなもんかな。そこに100回忌まで書いてあって驚いた。そこまでになると、もちろん子供も死んでいるそうだ。当たり前。しかし、そんな事までやりだしたら、10代さかのぼるだけで1024人いるわけで、凄い大変そうだと思った。お寺貪欲すぎ。